2月10日は太田市にとって特別な日
みなさん、終わってしまいましたが、2月10日って太田市にとってどんな日だか知っていますか?
太田市の学校としては平和教育に大切な日です。
ちょっと準備した資料を転記します。ご活用いただければ幸いです。
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2月10日は何の日だか知っていますか?
太田は現在、富士重工の企業城下町とも言えます。その富士重工の前身は中島飛行機製作所でした。三菱・川西とならび日本の航空機のトップ企業、東洋一の生産能力を誇る企業でした。
有名な零戦の開発は三菱でしたが、そのエンジン「栄」は中島製でした。また、零戦そのものもライセンス生産がなされ、設計元の三菱を上回る全体の約2/3を量産していました。当然、アメリカ軍の空襲目標となり、太田製作所、小泉製作所、呑龍工場が標的となりました。
さらに、大泉町(当時の小泉村)には小泉飛行場が、旧新田町(当時の生品村)北部には陸軍の生品飛行場(陸軍熊谷飛行学校新田飛行場:「赤トンボ」の愛 称で知られる複葉練習機が常駐していた)があり、これらも空襲の標的になりました。これらへの攻撃は艦載機での攻撃も多く、実際に機銃掃射を受けた一般人 も多い(○○先生の父さんも)。
2月20日快晴
午前9時35分 警戒警報発令。偵察飛行のみ。11時解除
午後1時25分 再び警戒警報発令
午後2時16分 ラジオ「B-29・12機の第1編隊はサイパンを出て京浜地方東方を北上中。第2編隊20数機は房総半島に接近し、関東北部に向かっている」
午後2時48分 ラジオ「第5編隊も房総半島に侵入」
午後3時05分 利根川に沿って西進してきたB-29約90機が古戸上空から北に向かって旋回し、爆撃開始。北西の風で流され内ヶ島、下小林にも被害が出た。
午後3時41分 爆撃終了。
昭和20年2月10日の群馬県太田空襲では、118機のB29により、152人が死亡し、2139人が被災しました。また4月4日もB29約100機 が、太田・小泉飛行場を中心とする空襲を行い、大きな被害が生じました。そして、なんと終戦前夜の昭和20年8月14日にも大空襲を受けました。
時代の証言者 美輪明宏 28 <2016年2月10日 読売新聞>
ヨイトマケの心
「ヨイトマケの唄」をはじめ、作詞作曲家集うに没頭していた1960年代前半に、反戦歌をたくさん作りました。
原爆孤児を歌った「ふるさとの空の下に」は、汽車で知り合った天涯孤独の青年をモデルにしています。「亡霊者達の行進」は、世界中の戦死者の亡霊が集ま り、行進しながら「我らを見よ。戦の答えがわかるだろう」と訴えかけるといった内容。戦争で犠牲になった方々の叫びには謙虚に耳を傾けなければなりませ ん。
日本人の慰安婦をテーマにした「祖国と女達」は、敗戦後、実家のそばの長崎・丸山遊郭が進駐軍らを相手にする慰安所として復活して、そこで働いていたお姉さんから聞いた話を基にしています。
田舎の家族を助けるために「いい働き口がある」と誘われて向かった先の満州(現中国東北部)で、慰安婦にされたそうです。戦争が終わってやっとの思いで 故郷の村に引き揚げると、家名に泥を塗ったとののしられ、居場所を失い、丸山に流れてきたのだとか。戦場で流れ弾に当たってなくなった仲間もいたが、日本 軍の恥になるからともんぺを中国服に着替えさせられ、外に放り出されて線香一本あげてもらえなかった。「私たちは何のために生きてきたのだろう」と、悔し 泣きしていました。
《「祖国と女達」》で、美輪は、戦場から戻った男は勲章を与えられ恩給ももらえる。また、名誉の戦死で立派な社に祀られるが、同じように戻った女は、勲章の代わりに故郷の人に唾をかけられ陰口をたたかれると、差別を強く訴える》
45年8月15日の敗戦を境に、美徳とされてきた軍国主義が否定され、一夜にして価値観がひっくり返りました。それまでの「鬼畜アメリカ」が「アメリカ 様」に変わりました。いばりまくっていた日本の軍人ほど変わり身が早く、アロハを着て、「フォーセール・マイ・シスター(うちの妹を買わないか)」と、遊 郭近くで米兵にすり寄っていた。情けなくなりました。
戦争は何一つ生み出さない不毛な行為。それなのに、人間は戦争を繰り返してきました。悲惨な出来事が起こるたびに感情的になっていては、報復合戦は終わりません。必要なのは知力です。冷静な判断力と相互理解の思いやりの心を持つことなのです。
私は、戦前・戦中・戦後を通して、比べるものをたくさん見てきました。美しい物と醜い物、良い物と悪い物、本物と偽物…。常識に惑わされず、真理は何か を考える力を学んできました。戦争を知らない若い方々にそうした体験を伝える語り部の役を、私は仰せつかっているのだと思います。原爆でかろうじて生き延 びたのも、疎開先で機銃掃射を受けながら生き残ったことも、そのお役目のため。義務というより責務と感じています。
(編集委員 永峰好美)